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詩仙堂
その由来は・・・
正しくは「凹凸窠(穴編に果)」(おうとつか)であり、
「凹凸窠(穴編に果)」とは、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。
この「凹凸窠」の中心には、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、頭上にそれら各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた”詩仙の間”を中心としているところから「詩仙堂」とよばれています。

凹凸窠(おうとつか)
凹凸窠十境
いま、詩仙堂とよばれているのは、正しくは凹凸窠であり、詩仙堂はその一室である。凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居というほどの意である。丈山はここに十境を見たてた。
まず、詩仙堂の入り口に立つと「史蹟詩仙堂」の碑があり、山茶花の樹影下に小さな門がある。
これが
小有洞(しょういどう)
であり、扁額に「小有洞」の文字がある。
門を入ると十数段の石段をのぼる。両側の竹林のために、昼なおほのぐらく、わずかに光がもれる。
石段をのぼりつめると、やや開け、石を敷いた小道に出る。その突きあたりに、左に登る石段が見える。
この石段を登り詰めたところに
老梅関
があり、「梅関」の扁額が揚げられてある。
ここに老梅数珠があったので、かく名付けられた。
老梅関の右手には
凹凸窠門
がある。
老梅関を入ると、玄関がある。
これを
蜂腰(蜂要とも書く)
という。この玄関はやや低く、丈山が蜂のように腰をかがめて出入りしたので、かくよんだ。
その右脇の雲形の窓は、趣向をこらしたものである。
玄関より座敷半山林出ると、前方に庭が開ける。この座敷の奥には丈山の遺品が飾られ、鴨居には僧都予が掲げられている。
この座敷の脇に
詩仙堂
がある。
壁には獅子が子を谷に落とす図のある扇形の壁間窓があり、その上方に、中国の詩人三十六人の画像および詩の額が四周に掲げられている。いまは大部黒ずんで、よくは見えない。
雅致ある廊下づたいに、隣の部屋へ行くと、ここは
猟芸巣(至楽巣)
という読書室である。
興至れば堂上の楼に上り、月に向かって朗吟する。
これを
嘯月楼
という。
至楽巣の脇に
膏肓泉
がある。
膏肓とは、薬も効かぬ所という意で、深い井戸のことである。
井戸の脇に
躍淵軒
がある。
これは、侍童の間で、侍童が将来淵に躍る鯉のようになるようとの意で、嘯月楼からすぐ北側下に見える。
嘯月楼から庭を見渡すのは、この境地を別の角度から鑑賞するものとして、趣のあるものである。




至楽巣の前より庭に下り立ってみると、まず、すぐ左手に
洗蒙瀑
がある。
蒙昧を洗い去る滝の意で、東山より引いた清冽な水が石を打つ。この水は、紅葉を浮かべて下方の庭に流れる。
これを
流葉はく(さんずいに陌)
という。
はく(さんずいに陌)とは、泊で、水の浅い意である。庭に松の巨木があり、付近の坂の小道脇の苅込も美しい。
ここに百花を配したので
百花塢
という。
塢とはどての意である。
その下かげに
僧都
がある。
僧都はまた添水の時を当てる。古今集にある「山田の僧都」というごとく、農夫が猪や雀をおどすために考えたもので、この地が山麓にあるので、鹿や猪が庭を荒らすのを防ぐために設けられたものである。
近時、庭の一隅に茶室を設けた。茶室から庭を通して前方の小山を見るのも。雅致のあるものである。庭と小山との境には、小川が流れている。小川の向うの小山に散り敷く落葉を分で散策するのも、また楽しいものである。
詩仙堂の庭は、丈山好みの唐様庭園として、当時の代表的な名園である。
丈山は作庭にもすぐれた手腕を持ち、桂離宮、枳穀邸(渉成園)の補修には、丈山の手が加わっているといわれる。
この庭は、後世修理が加わり、必ずしも昔のままではない。それにしても、庭の樹木の美しさと、岩を打つ滝の音、そうして僧都の叩くのどかな響きは、よく調和してこの山荘の閑寂を更に幽ならしめている。
丈山はこの他、燕所(安息所)をはい(草冠に過)軸軒、寝室を白室、書棚を剔蚋(紙虫をえぐる意)などと名付けている。



その後の詩仙堂
祭祀
平成二年 五月十二日~二十三日 創立三百五十周年記念事業として
- 一、武原はん 舞の会(於京都会館)
- 二、晋山結制式
を厳修する。
詩仙堂に関する詩歌文章
- 「祭石丈山文」
- 昌平黌教官柴野栗山 寛永九年
- (「詩仙堂志」に序文をよせている)
- 「詩仙堂雅志」
- (恩頼堂文庫蔵)
- 「詩仙堂志」
- 藤原成烈
詩仙堂の管理
丈山歿後、遺言によって丈山の高弟平岩仙佳(忘筌斎、煎茶第二世)がつぎ、それ以後は、丈山の遺言の旨に従い、「人品を見立、作法然る可き者」へと受け継がれた。
その後、昭和三年三月には、史蹟名勝天然記念物保存法により史蹟に指定される








